南アルプス天然少年団

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通りすがりの傍観者の足跡。

新・街道をゆく「信州アイドル紀行」〜松代・後編〜(2013/11/11)

新・街道をゆく「信州アイドル紀行」〜上田・前編〜
新・街道をゆく「信州アイドル紀行」〜上田・後編〜
新・街道をゆく「信州アイドル紀行」〜長野・前編〜
新・街道をゆく「信州アイドル紀行」〜長野・後編〜
新・街道をゆく「信州アイドル紀行」〜松代・前編〜


真田宝物館

松代城を出たあと空が急激に曇り、細かい雨がポツポツと降ってきたので、真田宝物館に逃げ込んだ。

真田宝物館
ここには松代城とその前身である海津城の史料が展示されている。
海津城もまた真田氏とはゆかりの深い城で、川中島合戦当時武田氏家臣であった真田幸隆(昌幸の父。信之・幸村の祖父)が居たことが明らかになっている。


【真田氏系図


上田編にて、関ヶ原の時の第二次上田合戦後、徳川秀忠の命により上田城に対する備えとして残されたのが“仙石”秀久と“森”忠政であることは述べた。
また、森忠政というのは森蘭丸(乱丸。長定。成利)の末弟であることも述べた。若い頃からの織田信長を支えた重臣・三左衛門可成の六男である。


【森氏系図


余談ながら、森家というのはよく討死する家で、忠政の父・可成は宇佐山城の合戦(1570年。対浅井・朝倉・延暦寺連合軍)で、可成の長男・可隆はその三ヶ月前の越前手筒山城攻め(1570年。対朝倉軍)でそれぞれ討死、三男蘭丸・四男力丸(長隆)・五男坊丸(長氏)の三兄弟も本能寺の変(1582年)で信長に殉じている。このため、森家の家督は可成の次男・長可(武蔵守)が継いだ。
海津城は武田氏が滅びると織田氏のものとなったが、初代の城主はその森長可である。
長可は信長の死後豊臣秀吉に仕えたが、長可もまた小牧長久手の合戦(1584年)にて徳川軍の攻撃を受け討死し、家督は兄弟でただ一人生き残っていた忠政*1が継ぐこととなる。*2


その後海津城は越後(新潟県)上杉氏の支配下となるが、1598年に上杉景勝(謙信の甥)が越後から会津へ転じると、田丸直昌が城主となる。
直昌は元々は伊勢(三重県)の人で、名門:北畠氏の一門で“田丸御所”とも呼ばれたが、北畠氏が織田信長と対立すると織田方に付いた。豊臣政権下では蒲生氏郷(信長の娘婿。直昌の妻は氏郷の姉)の与力大名となり、氏郷が会津92万石を与えられると守山城主(5万2千石)となって氏郷を補佐した。
氏郷は仙台の伊達政宗と関東の徳川家康との抑え役として期待されたが、41歳の若さで病死。会津には上杉景勝が入り、入れ替わるように直昌が海津城主に転じたわけである。しかし1600年、関ヶ原合戦の直前になって直昌は美濃(岐阜県岩村に移封となり、その後は森忠政が城主となった。つまりかつて兄・長可の居城の城主になったわけであるが、これは忠政の希望でもあったらしい。この時に城の名を「待城」と改めた。
関ヶ原合戦後の1603年、森忠政が美作一国(岡山県東北部)18万6500石へと加増転封されると、家康の六男・松平忠輝伊達政宗の娘婿)が城主となる。その後忠輝は加増されて越後高田(新潟県上越市)藩主となるが、待城も引き続き領有。この時期に待城から「松城」へと改名されたらしい。その後、城主は松平忠昌(家康の次男・結城秀康の次男)、酒井忠勝と続く。
1622年真田信之が城主となり、松代城と改名。前述の通り沼田領と合わせて13万石(沼田領はのち分知されて沼田藩となって独立したため、10万石)。以後、真田氏・松代藩の藩庁として明治維新に至る。



筆者が訪れた時期、宝物館では「松代藩と黒船来航」という企画をやっていて、幕末の真田氏の動向を知ることが出来る。
幕末の松代藩といえば、吉田松陰山本覚馬(『八重の桜』の“あんつぁま”)の師である佐久間象山を輩出したことで知られる。


宝物館を出ると雨脚は弱くなっていた。
寒いので、すぐ近くの茶店に入る。「おやき」「ざるそば」「うどん」とメニューにあった。
本来なら信州だからそばなんだろうけど、寒いので鍋焼きうどんを注文。
鍋焼きうどんを食べているうちに雨がやんだので行動再開。
真田邸へと向かう。
真田邸|施設のご案内|真田宝物館

庭園。


旅のお楽しみ

松代には他に、幕末に佐久間象山が砲術を教えていたという藩校:文武学校などがある。
文武学校|施設のご案内|真田宝物館
ここはNHK坂の上の雲』で、主人公の秋山兄弟の父・久敬(演:伊東四朗)が働く愛媛県庁として撮影に使われた。
他にも興味ある史跡もあったのだが、雨もやんだので史跡巡りは切り上げて予定変更することにした。



山に登るわけじゃないよ。


松代城など史跡からは松代駅の反対側、山の方に向かって15分ほど歩くと、松代温泉がある。

【公式サイト】 国民宿舎 松代荘 長野への家族旅行に最適な温泉旅館 真田幸村ゆかりの まつしろ温泉
日帰り入浴500円也。

源泉掛け流しで、温泉成分が強く、茶色く濁った湯であった。
露天風呂もある。
常連らしい人生の先輩氏に話しかけられたが、
「ここ、こんなに空いてるの初めてだよ」
「肩こりは一発で治る。湯治すれば腰痛も治る」
…とのことであった。
芯からあたたまるというか、外へ出てもあまり湯冷めする感じのしない湯であった。
そういえば関根梓殿は、長野での休日の際には家族で温泉めぐりをするとか言っていたが、ここにも訪れたのであろうか。


この松代温泉からも長野駅行きのバスは出ていたが、本数が少ないので再び松代駅へ歩いて戻る。
長野駅ゆきのバスが来るまでの間、「軽食・喫茶」と看板にある店でコーヒーをいただいた。
店を出る際、爪楊枝をもらったのだが、

なんとも粋ではないか。



とりあえずやりたいことは全部やれた旅であった。




――新・街道をゆく「信州アイドル紀行」、了――
 
 

*1:忠政も蘭丸らの兄と同じく織田信長の小姓を務めたが、同僚と喧嘩となって母の許に返されたのが結果として幸いし、本能寺の変での死を免れた。

*2:長可は身内が数多く討死しているためか、自分に万が一のことが起こった際に忠政に跡を継がせるのは嫌がっていたらしい。しかし、秀吉も自分に味方した武将の家を取り潰すわけにもいかず、また武勇ある森家が断絶するのを惜しんでその遺志に反して忠政に跡を継がせたらしい。