南アルプス天然少年団

南アルプス天然少年団

通りすがりの傍観者の足跡。

岐阜紀行〜長良川の曇り〜(7/20)

岐阜へ

7月19日夜、「関ヶ原 LIVE WARS 2014」(出演:LoVendoЯアップアップガールズ(仮))に参戦すべく、深夜バスで岐阜へ向かって出発した。
livewars.jp - このウェブサイトは販売用です! - 関ケ原 公園 ココア バナー 運動 リソースおよび情報
筆者、岐阜・関ヶ原には2000年10月8日に開催された「関ヶ原400年祭」を見物に訪れて以来である。
関ヶ原400年祭」は1600年の関ヶ原の合戦から400年を記念して、合戦の模様を再現したものであった。

合戦の再現を演じる武者たちは例えば島津軍は鹿児島、長曾我部軍は高知から、というように地元から募集されたらしい。
筆者はその時についでに、墨俣(一夜城跡)、岐阜(岐阜城、道三塚)、垂井(竹中氏陣屋跡、垂井城跡)、大垣(大垣城)、犬山(犬山城)といった周辺の史跡めぐりをしたのである。
関ヶ原合戦当時に西軍の拠点のひとつであった大垣城でも「大垣博」が開催されていて、ちょうど筆者が訪れた時に小学生対象の「歴史クイズ大会」をやっていた。
賞品のひとつがモーニング娘。のコンサートのチケットであったことが感慨深い。
ちょうど筆者が初めてモーニング娘。を生で見た頃のことで、4期メンバー加入後、シングル曲でいうと『I WISH』の時期である。*1



バスは朝6時頃、岐阜に着いた。
14年ぶりの岐阜である。
まだ時間に余裕はあるし、まだ路線バスも走っていない時間。
岐阜城を遠目から見てやろうと、城の方角に向かっててくてくと歩いて行った。


岐阜公園


岐阜城は現在は岐阜公園の中にある。


岐阜城金華山稲葉山。標高329m)の山頂にある。

岐阜城/観光コンベンション課/岐阜市公式ホームページ
信長以前(斎藤氏支配)は稲葉山城と呼ばれた。最初の築城は鎌倉時代らしい。
平地にひょっこりある山の上なので、以前登った時に見た城からの眺めは抜群であった。
山上の城跡 | 織田信長公居館跡発掘調査ホームページ 「史跡岐阜城跡」


天守閣には途中までロープウェーで行けるが、時刻は7:00前。さすがにまだやっていない。


もちろんロープウェーを使わずに麓から登って行くことも出来、地元では恰好の登山コースになっているらしい。
14年前に訪れた時にはちょうど岐阜で東海地区の弁護士さんたちの勉強会が行われていて、筆者が山頂近くを登っていると、途中までロープウェイで上がってきた30歳代と思われる弁護士さんたちが、麓から登ってきたご老人方に次々と追いぬかれていく様子が可笑しかったのを覚えている。



織田信長居館跡。

信長公居館跡 | 織田信長公居館跡発掘調査ホームページ 「史跡岐阜城跡」
現在も発掘調査が行われていて、信長以前の時代のものも発見されているらしい。


女性史における織田信長

山内一豊・千代夫妻婚礼の地記念碑。

これは14年前に訪れた時にはなかった。
当然のことで、これは一豊・千代夫妻が主人公だった2006年の大河ドラマ功名が辻』にちなんで建てられたもので、ようするに便乗である。
一豊は信長の家臣時代に千代と結婚したので、婚礼の地は岐阜城下のどこかであろうが、この場所であったかどうかはわからない。


石碑を製作した会社のHP。
http://www.woodstone.jp/shopdetail/006001000014/
「施主:長良川温泉旅館協同組合」とある。
つまり、↓こういうことである。
山内一豊・千代 婚礼の地 岐阜:長良川温泉 おすすめプラン


「この石碑に夫婦いっしょに手を添えてさわると、一豊・千代にあやかり、夫婦円満になれるといわれている」
とあるが、なにぶん新しいものなのでご利益があるかは疑問である。


しかし、この「山内一豊夫人・千代」だとか「豊臣秀吉夫人・おね」「前田利家夫人・おまつ」のように、大名・武将の妻や娘の実名が記録に残ってくるのは信長以降のことらしい(例えば平安時代の「藤原◯子」というのは、皇族に嫁いだ場合や官位を授けられた際の朝廷の公式記録に記載される名前であって実名ではない)。
それは信長が、それまでの為政者よりも女性の地位や役割(といっても当時のことなので、主に内助の功のことであるが)に理解があったことを意味しており、実際に信長が配下の武将の妻をねぎらったなどの例はいくつかある。
そういう意味では、織田信長という人物は日本の女性史にとって重要な人物なのである。


板垣死すとも

板垣退助像。


これは本物。
1882年(明治15年)に当時盛んだった自由民権運動の総帥として、まだ庶民の選挙権を認めていなかった政府に対抗していた自由党党首:板垣退助が政府派の暴漢に襲われ、「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉を言った(実際には言っていないという説もある)という事件(岐阜事件)は、事件そのものは知っていても、この岐阜城下でのことだったというのは意外と知られていない。
当時ここにあった建物(中教院)での演説を終えた板垣が外へ出たところをここで暴漢に襲われたのだそうで、これは14年前にここを訪れた時に初めて知った。


板垣は、信長に滅ぼされた武田氏の旧臣・板垣氏(武田信玄の若い頃を補佐した重臣板垣信方)の子孫が、武田氏が滅んだあと流浪していたのを、当時遠江国掛川静岡県)を領していた山内一豊が家臣とした、その子孫を名乗っている。
板垣は元来は政治家というよりも武人といってよく、幕末の最終段階において倒幕軍を起こす際に、西郷隆盛が倒幕軍の指揮を誰に任せるかを考えあぐねていたところを、坂本龍馬が板垣を推薦したことにより突如維新史にその姿を現した。
実際には長州から大村益次郎村田蔵六)という超弩級の軍事的天才が現れて倒幕軍の総指揮を執ったことにより、板垣はその一格下の軍司令官となるが、前線司令官としてはもっとも優秀であったという。
というわけで、板垣は本来日本陸軍を背負って立つ存在であったはずなのだが、長州閥が占めた陸軍にはじき出され、さらに征韓論の争議の末、政府からも追われた。
このため、自由民権運動という一種の反政府運動創始者となるが、そこは謙虚な人柄で、
「この運動は自分が考えたものではない。土佐の旧友・坂本龍馬君が言っていたことである」
と、語っていたという。
自分を世に出してくれた龍馬への恩義を感じていたかもしれない。
おそらく板垣という人物は、吉田松陰高杉晋作桂小五郎木戸孝允)、西郷隆盛大久保利通武市半平太坂本龍馬中岡慎太郎…といった、幕末から明治維新にかけて輩出された人物たちに比べれば、「日本の未来像」について、その100分の1も持っていなかったと思われる。
しかし、現在の日本の政治家が板垣の100分の1も持っているか?といえば、全くそうとは思えない。


長良川のうた

岐阜城を出て、さらに進んで行くと長良川にあたる。


鵜飼船乗り場前には五木ひろし先生の『長良川艶歌』が1984年にTBS「ザ・ベストテン」で「12年間ベストテン第1位」を獲得した時の記念碑がある。



しかし、我々にとって長良川の曲といえばこっちだな。

中澤裕子長良川の晴れ』
作詞・作曲:つんく 編曲:小西貴雄
“中澤版「瀬戸の花嫁」”というか、“中澤版「秋桜」”というべきか。
つんくPが実はこういう曲も書けるんだ、という曲でもある。
もっと評価されていい曲だと思う。
そして、『ハッピーサマーウェディング』でのセリフ部分もそうだし、モーニング娘。初期の名曲『パパに似ている彼』もそうであるが、幼少の頃に父を亡くした彼女が生涯言うことの出来ない言葉をせめて歌の中で言わせてやろう、というつんくPの思いやりには感動せざるを得ない。
残念ながらこの日は“晴れ”とはとても言いがたい天候であったが。


昨年の6月、彼女のバースデーライブにて、
「誕生日が6月。結婚したのも6月。そして父の命日も6月なんです」
と語ったあとに、この曲を歌った。
サビの「♪会いたいわ 父さんに」では、多くの観客が胸をしめつられた(と思う)。



ちょうどバスが来たので、駅に戻る。
駅前で朝食をとってJRで関ヶ原へ向かった。




――関ヶ原編へ、つづけ――
 
 

*1:その大垣博の時点でも12期メンバーのうち2人(牧野真莉愛羽賀朱音)はまだ生まれてなかったんだよなぁ…。