南アルプス天然少年団

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通りすがりの傍観者の足跡。

新・街道をゆく〜浜松のみち〜前編

出世城へ


前日のアップアップガールズ(仮)ライブ@浜松Forceにて、森咲樹殿も「静岡(浜松)を楽しめ」と言っていたので楽しむことにする。
今年、2015年は徳川家康没後400年にあたる。
徳川家康公顕彰四百年記念事業|四百年祭について
というわけで、ライブの翌日、家康が青年期(29歳から45歳)を過ごした城・浜松城へと向かった。
考えてみればアプガさん、いい時に浜松に呼んでくれたものである。
この前々日が話題となったラグビーワールドカップの日本×南アフリカ戦であったので、当然ながら浜松でもトップニュースはこの話題であった。

浜松はこの夏の甲子園で名を上げた清宮幸太郎選手の父で元ラグビー選手である克幸氏が監督を務めるヤマハ発動機ジュビロの本拠地・磐田に近い(Jリーグと同じ本拠である)。
清宮克幸氏は高校日本代表、学生日本代表、U23日本代表、日本選抜、日本代表Bの経験はあるが、残念ながら日本代表には一度も選ばれていない。次期日本代表ヘッドコーチに立候補するとの話があるが、さてどうなるか。
前夜、ライブ後に浜松の夜の街を徘徊した感じでは立ち飲み屋が多いとの印象であったが、「立ち飲み屋が多い=サッカーが盛んな地域」という望月三起也氏の言っていた定説が当てはまるのかどうか。


浜松城へは浜松駅からバスで行けるが、筆者は遠州鉄道第一通り駅付近に宿をとっていたので、駅からよりは近い。のんびり歩いて行くことにした。
地図を見ると、なんのことはない、昨日の会場だった浜松Forceの前を通っていけばいいのだなということがわかる。

浜松Forceの前を北へ。広い通り(ゆりの木通り)を西へ。
さらに広い大手通り(旧・東海道)に出て北へ向かう。


浜松のゆるキャラ出世大名家康くん

出世大名家康くん オフィシャルサイト
あらいぐんまちゃん。のライバルなわけである。
江戸期の浜松藩主からは老中など幕府中枢に抜擢された藩主が多く、このため浜松城は“出世城”と称されることが多いことから、この名前なのであろう。


標識にも使われていた。

どこかの元リーダー(仮)が考えたような標語…。


浜松城時代の家康

大きな道路を渡ると、市役所があって、その向こうに浜松城公園の入口がある。

徳川300年の歴史を刻む出世城。浜松城


近年(2012〜13年)再建されたばかりの門(天守門)をくぐる。

この門の上部の室内にも展示室がある。


浜松城天守

浜松城明治維新後に棄却され、現在建っているのは昭和30年代(1958年)に再建された鉄筋コンクリート製のものである。


石垣が「野面(のづら)積み」という自然の石を加工せずにそのまま積んだもので、戦国期の荒々しさを感じさせる。


天守の内部はやはり徳川氏関連の展示が多かった。拝観料200円也。
歴代城主の表も貼られていた。
家康のあとの城主の姓でいうと、
堀尾→松平→水野→高力→松平→太田→青山→本庄→松平→本庄→井上→水野→井上
…ということになる。
堀尾氏以外は譜代大名で、先にも述べたが、幕閣中枢に起用された人が多い。
代表的なのは、天保の改革の実行者として知られる老中・水野忠邦であろうか。
この歴代藩主の中では太田資宗(家康側近→幕府六人衆=のちの若年寄に相当)がいるのが面白い。
資宗は系図上では江戸城を築城した太田道灌(資長)の子孫とされており、なんだか徳川氏と太田氏で城を交換したような形になっている。
また、「家康が浜松城主時代に生まれた子供たち」という表もあって、男子でいうと次男秀康(結城秀康)、三男秀忠(二代将軍)、四男忠吉、五男信吉(武田信吉)がそれにあたる。
ちょうどのちの関ケ原合戦当時に成人していた家康の息子たちである(秀康は会津上杉氏抑えの将、秀忠は中山道軍司令官、忠吉は家康と共に関ケ原本戦に参加、信吉は江戸城留守居役)。


天守最上階は各地の城でもよくあるような展望台になっている。


こんなのやっていた。


城の北方、三方ヶ原古戦場を望む。

浜松城時代の家康で大きな出来事といえば、武田信玄率いる大軍に一か八かの勝負を挑んで敗れた三方ヶ原の合戦であろう。
徳川300年の歴史を刻む出世城。浜松城


門の上部室内の展示は、この三方ヶ原の合戦の経緯を人形やジオラマを使って再現されていた。


https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/miryoku/kawarahan/2015/0121.html


家康が敗戦直後の自らの姿を絵師に描かせ、以後の戒めとしたとされる「顰(しかみ)像」。

それを描かせている様子や、その絵も人形で再現されていた。
ちなみに、徳川家康といえば太った人というイメージが濃いが、家康が太ったのは50代になってからのことで、この顰像でもわかるように浜松城主時代の家康は痩せていた。


城主は井戸がお好き?

城内の売店を覗くと、なぜか真田紐を売っていた。

徳川氏の城で宿敵真田昌幸が考案したとされる真田紐がなぜ…?
来年の大河ドラマ対策であろうか。


もっとも、現在建っている浜松城天守は家康時代のものではなく、家康のあとに城主となった堀尾吉晴時代のものを復元したものである。
浜松城には観光ボランティアの方が居て、頼むと解説をしてくれるのだが、ちょうど説明を受けていた人が、
「えっ、それじゃあこの景色は家康が見ていたものとは違うんですか…!?」
と、唖然としておられた。
堀尾吉晴(1544-1611)。通称茂助。官位は従四位下、帯刀先生(たてわきせんじょう)。豊臣三中老の一人(三中老という役職は後年創作されたもの、という説もある)。
「仏の茂助」と称されるほどの温厚な人物であったらしい。
豊臣秀吉の家臣では最古参の部類で、秀吉家臣の中では高名な加藤清正石田三成よりも先輩にあたる。
織田信長稲葉山城(のちの岐阜城)攻めの時に秀吉と共に裏手の山道を登って城攻略に功があった…という逸話が語られることが多い。
しかし、いささか地味なのか大河ドラマなどでもあまりクローズアップされることのない人物である。
2006年の大河ドラマ功名が辻』で、主人公の山内一豊・千代夫妻と家族ぐるみの付き合いをしている友人として登場していたぐらいであろうか(山内一豊上川隆也、千代:仲間由紀恵堀尾吉晴生瀬勝久、吉晴妻いと:三原じゅん子)。


天守の地下には井戸があったそうで、これも再現されていた。

そういえば、最近世界遺産となった松江城にも天守に井戸がある。
松江は関ケ原後に堀尾氏が移封された土地で、松江城は吉晴とその子の忠氏が築城したものである。
先日放送された『ブラタモリ』でも、松江城天守に井戸がある珍しい城として紹介されていた。
タモリ氏は「天守に井戸があったってしょうがないだろ(笑)」と言っていたが、堀尾父子、なにか特別なこだわりがあったのであろうか。

松江城堀尾吉晴像)



浜松城公園内には有名な家康像がある。

家康が持っているのは家康の兜の意匠としても知られるシダの葉。

しかし、
(シダといえばニュージーランドオールブラックスのエンブレムだなぁ)
と、思い浮かぶラグビー脳…。


後ろは…?

ははあ、こうなっているのか。


なお、浜松城では現在でも発掘調査が続いており、その研究成果が城外のプレハブの方で展示されていた。




――つづけ――