南アルプス天然少年団

南アルプス天然少年団

通りすがりの傍観者の足跡。

新・街道をゆく「信州アイドル紀行」〜上田・前編〜(2013/11/10)

NAGANO CLUB JUNK BOX 14th Anniversary [NAGANO IDOL BOX]
【日付】2013年11月10日(日)
【時間】OPEN 17:00 / START 17:30
【会場】長野CLUB JUNK BOX
【出演】アップアップガールズ(仮) / ひかり(from オトメ☆コーポレーション) / おしくらまんじゅ / ビームアイドルスクール

http://www.shinshu-liveon.jp/event/nagano_club_junk_box_14th_anniversary_nagano_idol_box

そしてそして!!!!
NAGANO JUNK BOXでのライブ前に、タワーレコード上田店にて、
なんと!ミニトークショー&握手会を行うことが決定いたしました!!!!!!!
詳細はコチラ!↓↓
開催日時:2013年11月10日(日)12:30〜START
開催場所:タワーレコード上田店 店内スペース
タワーレコード上田店にて、10/30発売 アップアップガールズ(仮)「Starry Night/青春ビルドアップ」(TPRC62)をお買い上げいただいた方に、先着で握手券を差し上げます。
握手券1枚につきメンバー全員と握手1回にご参加いただけます。

http://ameblo.jp/upfront-girls-news/entry-11675813562.html

信州へ

秋深まった2013年11月。
ちょいと小旅行、それもバス旅行がしたくなった気分のところに、ちょうどいいイベントのお知らせがあった。
長野は筆者のような登山をやっていた者には馴染み深い土地である。
しかし、筆者のような“多摩県”在住者には、長野は新幹線で行くのは東京駅や大宮駅に出なければならないのでややめんどくさい。
その点、バスなら新宿から出ているので便利である。
あとから長野でのライブ前に上田でのイベントが追加されたが、時刻表を見てみると、長野到着後に電車で行けばギリギリ間に合うとわかった。
以前の握手会にて、某信州産小悪魔に、
「(長野に来るなら寒いから)あったかくして来てね」
と言われたので、厚着して出発。
長野駅には予定時間より少し早めに到着。
すぐにしなの鉄道直通のJR線に乗って上田へと向かった。


信州上田


上田市は2006年に小県郡丸子町真田町武石村と合併した。


上田駅前。

上田城 - Wikipedia
上田はやはり真田氏の街である。

「大坂冬ノ陣とか夏ノ陣に、落日の豊臣氏の城頭にかかげられた真田幸村六文銭の旗は、日本史上、数すくない侠気というものの劇的表現として古くから民衆にこのまれてきた。幸村とその真田氏に対し、信州人たちは郷党の精神と気質の精粋のようなものを感じているらしく、六文銭はほとんど上田の象徴であるかのようである。」
  ――司馬遼太郎街道をゆく・信州佐久みち』より――

もっとも以前、上田城を訪れた時、上田城の看板に、
真田幸村の城」
とあり、最初疑問に思わなかったが、よく考えてみれば上田城は幸村(信繁*1)の父・昌幸の城である。
1583年築城(初名・松尾城)というから、本能寺の変の翌年のことである。現在のJR上田駅の北西に位置する。
昌幸はこの上田城にて二度、徳川の大軍を撃退しているが、とくに有名なのが、関ヶ原合戦当時の第二次上田合戦である。
関ヶ原合戦時、昌幸・幸村父子は西軍・豊臣方に与して上田城に籠城、わずか2千5百の軍勢で徳川秀忠率いる3万8千の大軍をくい止めた。当時東軍は徳川家康率いる東海道軍と秀忠率いる中山道軍に分かれて西へ向かっていたが、結果的に昌幸は秀忠軍を関ヶ原での本戦に間に合わなくした。


【真田氏系図


本戦で西軍が敗れたため、昌幸・幸村父子は高野山へ蟄居させられるが、東軍・徳川方に与した昌幸の長男・信之(信幸)が上田城を相続出来た。しかし信之はまもなく松代へ転封となり、その後は仙石氏(三代)、さらには松平氏(藤井松平氏。七代)が城主となり幕末を迎える。
つまり、上田を真田氏が治めていたのはわずかな時期(40年ほど)だったのだが、現在の上田は真田一色で、仙石・松平両氏の統治時代はまるでなかったかのようになっている。
また、昌幸が築城した上田城関ヶ原合戦後に徳川氏によって徹底的に破却されているので、現在の上田城は仙石忠政が再建したものである(築城途中にして忠政が急死したため、未完成とされている)。
また上田には、『真田太平記』など真田氏ゆかりの作品が多くある作家・池波正太郎の「池波正太郎真田太平記館」があり、以前訪れたことがあるが、展示がなかなか興味深かった。
池波正太郎真田太平記館/上田市役所


あいうえお作文

タワーレコード上田店には、上田駅から上田城方面(お城口=北東方面)に出て、上田城とは逆方向の東南へ向かう。駅からちょっと離れたイオン上田の2階にある。
上田店- TOWER RECORDS ONLINE

筆者が店内に到着したのが13:28。
すぐに13:30、メンバー登場。衣装は『Starry Night/青春ビルドアップ』ジャケット写真の衣装。

この日は、あいうえお作文「な」「が」「の」で自己紹介。
関根梓「“な”つが過ぎたじゃん。あぷ“が”をもっと “の”ばして行きたいのであーる! 長野県在住・高校2年生17歳・関根梓です」
佐藤綾乃「“な”っとうが大好きで毎日食べてました。“が”、最近はあんまり食べてません。“の”んさんです
森咲樹「“な”んか今日肌寒いので、“が”んばって大きい声を出してモリモリと叫びますよ」
観客<モリモリー
森「“の”ーノーノー! もっと大きい声出して」
佐保明梨「“な”(泣)かない。“が”さつにしない。“の”ぼらない」
古川小夏「どこにだよ?!」
 〃「“な”つも終わりましたね。“が”つがつ暑苦しくいきたいと思います。“の”う(脳)天気な古川小夏です」
仙石みなみ「“な”んだろう、“が”んがん攻めたいこの気持ち “の”ぼるしかない上田城
上田城は平城だし天守閣もないから、あんまり登るところがないのであるが…。
新井愛瞳「“な”んでも、“が”っつり、“の”んびりいきましょう」


アプガ軍、上田城を攻略す

この日はメンバーは朝から長野県入りし、上田城で甲冑を着て乗馬体験をしたそう。

(↑なんとなく“豪傑”という表現が似合いそうですな)なお、戦国期の真田氏は上野国群馬県)にも勢力を拡げており、江戸期にも分家の沼田藩(現・群馬県沼田市)があったから、群馬在住のこの人にも関係ないことはない。


ところが、甲冑がなぜか6人分しか準備されてなく、佐藤綾乃殿だけ別の衣装だったという。
佐藤「私、いつもそういう役回りなんですよ(苦笑)」
ハロプロエッグ1期生と6期生の壁はまだまだ高い…?
というわけで、
佐藤「ハッピ(陣羽織?)を着て大将役になりましたー」

しかし、「似合ってたよ」「イケメンだった」とメンバーからは好評。
森「“侍魂”がいちばん似合ってなかったよ(笑)」
仙石「私、帽子を浅くかぶる癖がついちゃってて…(苦笑)」


なお、仙台出身“侍魂仙石みなみ殿が敬愛してやまない伊達政宗であるが、政宗も仙台も真田氏、とくに幸村の血統存続には大いに関係がある。
大坂夏の陣で幸村は討死、その長男・大助幸昌も豊臣秀頼に殉じた。
幸村の次男・大八は大坂城落城の時城外におり、その後七歳の時に京都で事故死したことになっていたが、実は幸村の娘たちと共に伊達政宗の家臣・片倉重長政宗重臣片倉小十郎景綱の子)に保護されており、のち片倉守信と名乗っている(姉・阿梅はのち重長の後妻となった)。
守信の存在は徳川家から「幸村の子ではないか」と疑われたが、伊達家は「守信は信尹(昌幸の弟で早くから徳川家臣。幸村の叔父)の孫である」という偽装の系図を作ってその存在を隠し通した。

これは、例えば同じ奥州・弘前城主の津軽為信関ヶ原後に石田三成の子(杉山源吾=石田重成)を匿ったように、大名たちもこのまま徳川氏の天下が続くかどうかはわからず、もしも家康が死んだら再び天下は乱れるのではないか?その時豊臣系の支配が復活するのではないか?…などと思っていた気分の現れではないかとも推測できる。
「大八、七歳で京都で事故死」の虚報も片倉重長もしくは伊達政宗が流布したもの、とされている。
守信はのち仙台藩士となり、その子・辰信の代に真田氏に復姓している(仙台真田氏)。
仙台真田氏 - 蔵王町の歴史と文化財 - 幸村遺児、片倉氏に依る


また、現在残る上田城を再建したのが、“仙石”忠政であることは既に述べた。
第二次上田合戦後、徳川秀忠上田城攻略をあきらめて西へ急ぐこととなったが、その際上田城への抑えとして残されたのが“仙石”秀久(仙石忠政の父)と“森”忠政である。
【仙石氏系図


森忠政というのは、高名な森蘭丸(乱丸。長定。成利)の末弟である。
【森氏系図



ところで、用意されていた甲冑が6人分しかなかった件。

これは筆者の想像なのだが、最初から上田城には甲冑が6人分しかないのでは?ということである。
なぜ「6」なのか。
前述の通り、真田氏の家紋・旗印は「六文銭」である。

この家紋は、真田氏がその祖とされる海野氏(源平・南北朝の時代に信濃で勢力を誇った一族)から継承したもので、三途の川の渡し賃とされる。
これは三途の川の渡し賃を身につけているので、「仏法のために身命をささげて惜しまない」「死を怖れずに戦える」ということなのだが、上田城で甲冑を作る際に、
「いくつ作りましょう?」「そりゃ真田だし、六文銭だから6つだろう」
という、わりと簡単な決め方だったのではないか?…と思ったりしている。




――つづけ――
 
 

*1:「幸村」という名前は良質の史料には見られなく、本名は「信繁」が正しいとされる。大坂冬の陣・夏の陣の時に「幸村」を名乗ったという説もあるが、現在までに確定史料は発見されていない。