南アルプス天然少年団

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通りすがりの傍観者の足跡。

ラガーマン・草津正武

グレート草津さん死去、がんと闘病も… 


国際プロレスなどで活躍した往年の名レスラーで、がんと闘病中だったグレート草津さん(本名草津正武=くさつ・まさたけ)が21日午後1時5分、入院先の静岡県内の病院で死去した。66歳だった。
草津さんは昨年5月に食道がんで入院。肺や肝臓などに転移し療養していた。
通夜は23日午後7時から、葬儀・告別式は24日午前11時から、ともに静岡県駿東郡長泉町下土狩71の11、セレモニーホールみしま平安会館で。喪主は妻智子(ともこ)さん。


草津さんはラグビー日本代表に選出された身体能力を生かして65年にプロレスラーに転向。
国際プロレスには68年1月の旗揚げから参加した。「鉄人」ルー・テーズと死闘を繰り広げ、81年に同団体が消滅するまでラッシャー木村らと主力選手として支えた。

http://www.nikkansports.com/battle/news/p-bt-tp0-20080622-374807.html




熊本工から、当時日本一強かった八幡製鉄(現・新日鐵八幡)に入社し、一年目からレギュラー。
189cm、93kgの体格。ポジションはロックでありながら100mを11秒台で走る俊足で、八幡製鉄の日本選手権3連覇(昭和32〜34年)に貢献。
昭和37年の八幡製鉄ニュージーランド・オーストラリア遠征でも6トライと活躍。


しかし日本代表に選ばれるもキャップはわずか1。23歳でプロレスに転向した。
当時ラグビーはアマチュアリズム全盛期。
ラグビーでの名声を利用して金銭を得てはならない」
草津は即座にラグビー界から永久追放となった。


プロレス入りの理由に関しては長らく「金のため」と推測されていたが、実は謎であった。
というのも、本人がそのことについて一切語らなかった為である。
それが明らかになったのははるか後年、八幡製鉄の同僚だった作家の佐木隆三氏によるインタビューであった。

草津の語学力は抜群で、外国選手との交流では通訳をつとめるほどだった。だから英文の技術書も読み、大学卒と張り合うつもりでいた。
―そしたら係長が、ポーンと本を投げて『これ訳しておけ』というて、見たらドイツ語ですもん。カーとなって辞める気になったですけ。
(『NUMBER』1981年7月5日号の記事。中尾亘孝著・文藝春秋社刊『15人のハーフ・バックス』より筆者転載)


「もし、俺が早稲田にでも入ってたら、プロレスラーにはならなかっただろうね。そうすりゃ、40歳近くまでラグビーやってたと思う。そんな気がする。」
(『NUMBER』1984年1月20日号。『15人のハーフ・バックス』より筆者転載)


今だったら…、と思う。




合掌。