南アルプス天然少年団

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通りすがりの傍観者の足跡。

『世界は僕のCUBEで造られる』感想

(公演終了、並びにDVD化の予定もない作品なので、ネタバレあり)




主人公“僕”は、CUBEマスター角田によってドラッグ・CUBEを飲まされて無意識の世界へ送られる。
そこには、良識、欲望、滑稽、性欲、嫉妬、怠慢などのCUBE(“僕”の人格を構成している分身)たちがおり、“僕”は彼らを知ることによって己自身と向き合い、葛藤することになる。
そんななか、欲望のCUBEである“彼”が、ほかのCUBEたちを次々に削除し、最終的には“僕”をも削除して、取って代わろうとする。
他のCUBEたちは、“僕”を削除すると全体が崩壊してしまうと、それを阻止しようとする。
で、いろいろあって、結局、“彼”は“僕”を削除してしまうと全体が崩壊してしまうので、やっぱりやめたというお話…。


なんだ。わかってんなら最初からやらなきゃいいのに…。
結局なにがしたかったんだ、こいつは?



スタンリー・キューブリック監督の映画『時計仕掛けのオレンジ』に対するオマージュと思われる部分があり、まさか、
キューブリック→キューブ→CUBE」
という発想じゃないだろな?…とも思ったり…。



まず、物語の発端を作るキューブマスター角田。
「CUBEの世界を自由に操れる」という、いわゆるマッドサイエンティスト役なのだが、記憶に新しいために当然ながら思い出されるのは、『夢落ち』の「夢の世界を自由に操れる」スーパードクター白鳥である。
隣に助手役の女性を伴っている姿や音楽にのって登場してくるところなども同じなので、どうしても比較してしまうが、敵役ながら魅力的かつ憎めなかった白鳥に比べて目的が曖昧だし、キャラクターも弱い。


欲望のCUBE:“彼”が他のCUBEたちを次々と削除していく場面。
具体的にはピストルで撃つわけであるが、この場面はさすがに『刻め、我ガ肌ニ君ノ息吹ヲ』で迫力ある殺陣を見せてくれた劇団だけに、弾着などしっかりした演出だった。
が、そのたびに愛と平和のCUBEであるラブ&ピース(梅垣義明風)が出てきて復活させるので、
(どうせまたすぐ復活するんだろ?)
と、だんだんと緊迫感がなくなっていくというジレンマ…。
やがて、ラブ&ピースも削除されるのだが、
(こりゃ、修復のCUBEが出てきてなんとかするんだろうなぁ…)
と思っていたら、やっぱり出てきて修復して復活…という、先が見え過ぎる展開。


主人公が少し内気な青年であるならば、その敵役となるのが欲望のCUBEというのにはやや違和感が残るし(“見栄のCUBE”とか“世間体のCUBE”とかが適当であろう)、その“彼”がラスト近くに発する、現実世界に対する不安と憂いと皮肉の入り交じったセリフは、“欲望”のセリフとしては決定的におかしい。



幻想的な舞台設定、主人公の意識下・記憶の世界で繰り広げられる物語となると、前述の『夢落ち』だったり、『レモンスター』だったりと比較せざるを得ないが、この両作と比べてもストーリー的に詰めの甘さが目立つのは否めない。
この二作品を観ていなければそれなりに楽しめたのかもしれないが…。



そしてやはり気になるのが上演時間。
開演前、
「上演時間は2時間ほどになります…」
というスタッフの声に、
「えっ!?」
と、思わず声をあげてしまった。
(ここで2時間もやるの?)
…と。
事前に、シアターブラッツなら1時間20分くらいかな? 以前ここで観た『僕に似合いの身体』もだいたいそれくらいだったし…と、思っていたので、かなり驚いた。
というよりも、耳を疑った。
芝居には劇場に合った適正な上演時間というものがあると思う。
前列は桟敷席になっているし…。
以前、とあるアマチュア劇団の関係者に、
「桟敷の小屋ならせいぜい一時間くらいでまとめないと…。それ以上やったら、お客さんがもたない(笑)」
という話を聞いたことがある。
だとすれば、2時間というのは芝居の内容に関わらず拷問に近い。
なにせ椅子席にいた筆者ですらお尻が痛くなったのだから…。



この作品にはAとBとがあって、それぞれエンディング(“彼”が“僕”を削除するのをやめたあと)が異なる。
筆者は諸々の理由でAのみしか観劇出来なかったが、Bがどういう終わり方だったのかについては興味がわかなかった。
たぶん、この作品の肝だったり問題点だったりは、結末ではないように思われる。
だから、AB両作観るのは、いろんな意味で苦しかったと思う。
 
 


――『世界は僕のCUBEで造られる』、了――