南アルプス天然少年団

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通りすがりの傍観者の足跡。

徳川まい蔵

里田まい殿の尊敬する歴史上の人物が「徳川まい蔵」なる人物であることはよく知られているが…。


【愛知】幸田・松平家の墓から豪華な副葬品 質素倹約の時代も遊び心忘れず


幸田町本光寺にある戦国−江戸時代の大名、深溝(ふこうず)松平家の墓から、金の純度が高い慶長小判をはじめ小判43枚など多彩な副葬品が発掘された。本光寺深溝松平家東御廟所調査会(代表・赤羽一郎愛知学院大講師)が14日発表した。
小判などが見つかったのは、16世紀初めに深溝城(幸田町)城主になった松平忠定を祖とする深溝松平家の墓の一つ、7代忠雄(1673−1736年)の墓。
多彩な副葬品から、忠雄は粋な趣味人だったと推測される。

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20090515/CK2009051502000030.html

ざっとみても数億円の価値があるらしい。


深溝松平家といえば、徳川家康の一族、家臣として活躍し、『家忠日記』を書いた松平家忠の家系。
この家忠の他に、
東条松平家の家忠、
形原松平家の家忠、
と、同時代に「松平家忠」という人物が三人いたのでややこしい。
(しかも深溝松平家の家忠の妹が、東条松平家の家忠に嫁いでいるからこの二人は義兄弟…)
深溝松平家は、三河国深溝を代々本拠にしていたが、家忠の時に家康の関東入りに従って忍城(埼玉県行田市)城主となり、のち下総小見川に移封(共に一万石)。
その後家忠は、関ヶ原合戦の前哨戦にあたる、伏見城の戦いで鳥居元忠らと共に西軍と戦い討死。
戦後、家康は子の忠利に常陸国茨城県)で加増しようとしたが、忠利は本領深溝復帰を願い、これが叶えられた(一万石)。
のち三河国吉田(豊橋市)三万石に移り、さらに子の忠房が島原の乱後の島原(長崎県島原市)を与えられることになる。


家忠の残した『家忠日記』は、織田信長豊臣秀吉、そして家康の動向や、家忠自身の私生活について詳しく書かれており、当時の大名の生活を知る上で、一級品の史料とされている。


松平家忠
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E5%BF%A0
家忠日記
http://www.komazawa-u.ac.jp/cms/issatsu/issatsu_0506/
松平忠雄
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E9%9B%84


なお、松平家忠と『家忠日記』については、盛本昌広氏の研究があり、氏の著書『松平家忠日記』(角川選書)に詳しいので、興味あられる方は参照されたい。



さて、徳川まい蔵である。


徳川まい蔵という人物についてはよくわかっていない。
里田殿によれば、
1)徳川家康の一族である。
2)徳川埋蔵金を隠した張本人である。
3)また、何故だか自分の雑巾を隠したこともあるらしい。


徳川まい蔵について
(現在までの研究成果)
http://ansaikuropedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E3%81%BE%E3%81%84%E8%94%B5



すなわち、松平忠雄は、徳川家康の一族である、という条件は満たしており、今回発見されたものが埋蔵金の一部であるとすれば、この松平忠雄こそが、「徳川まい蔵」なのではないか?という仮説が成り立つのである。



あとは松平忠雄が、自分で隠した自分の雑巾(“MYゾーキン”ということであるらしい)が発見されることを願うのみである。