南アルプス天然少年団

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通りすがりの傍観者の足跡。

豊臣秀頼と天草四郎は親子?

『新説!?日本ミステリー』
5月27日(火) テレビ東京 19:56〜20:54
天草四郎豊臣秀吉の子孫!?▽フィリピンに豊臣秀吉の第2王朝▽日本でピラミッドの呪い!?ほか


豊臣秀頼大坂夏の陣では死んではおらず、薩摩へ脱出し島津家に匿われた。秀頼の子・四郎秀綱が天草四郎となって、豊臣家再興を目指して島原の乱を指揮したが敗れ、さらにルソン(現在のフィリピン)へ脱出した…、という話。


こういう話になると、必ず登場するのが、木下崇俊氏。*1
秀吉の正室北政所おねの甥・木下延俊(豊後日出藩主。三万石、のち二万五千石。歌人・木下長嘯子の弟、小早川秀秋の兄)の直系の子孫である。


あと、歴史研究家の天堂晋助氏。
この人時々見かけるが、いったい何者だろう?
「天堂晋助」というのは、司馬遼太郎『十一番目の志士』の主人公(架空の人物)の名前なのだが…?


さて、番組内では簡単にしか触れていなかったが、秀頼とその子・国松(大坂落城後に京で処刑された、というのが通説)の大坂脱出については古くから説がある。
木下崇俊氏の亡父である俊煕氏(旧子爵)は生前、これを真実であるとし、さらには、木下延俊の弟・出雲守宗連(外記とも。通説、系図上は小早川秀秋の弟)という人物が秀頼であり、延俊の子で、豊後立石藩(延俊より五千石を分与)初代藩主となった羽柴延由こそが国松の後の姿である…という木下家に代々伝わる“一子相伝”(代々父から嫡子だけに伝えられる口伝)を発表されている。
http://www3.coara.or.jp/~chidokan/tateisihan-ihai.html
(なお、同時に公開された木下延俊の当時の日記『木下延俊慶長十八年日次記』は、現在一級の歴史資料という評価を受けている。この日記については、角川選書から出版されている二木謙一氏の『慶長大名物語 日出藩主木下延俊の一年』に詳しい。)


この秀頼と国松の脱出については、前川和彦氏の長年の研究があり、著書もある。
『秀頼脱出』(国書刊行会)というもので、幸い筆者は私蔵している。
この書は、主として秀頼と、国松の脱出について多く割かれているが、天草四郎=四郎秀綱の話にも軽くではあるが触れられていて、それによれば、秀頼には大坂脱出後に出来た子供がおり、


次男・木下善右衛門(善左衛門とも)
三男・谷村誉三郎(正之)
四男・羽柴天四郎(秀綱。天草四郎
五男・清野誉之右衛門

と、なっている。
このうち、誉三郎と天四郎は同母。異母兄の木下善右衛門も島原の乱に参加し、幸い生き残ったらしい。


さらにこのほかに、木場(こば)時忠という子がいた可能性もあり、子孫もいる。
こちらの木場家の方にも“一子相伝”が残っており、これも国松=羽柴延由としている。




この本を読むと、秀頼はともかく、国松は脱出に成功しているような気がする。


石田三成の次男・重成しかり、真田幸村の次男・大八しかり。
(石田重成は津軽家に、真田大八は伊達家に匿われていた)
通説死んだことになっていた人物が、実は生きていた…なんてことはわりとあるんである。


木下家系図
http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/kinosita.htm
延由の子孫は明治になって絶えた、とされていたが、最近子孫が見つかったらしい。





 

*1:番組内でのテロップでは「嵩俊」となっていたが、「崇俊」が正しいはず。それとも改名されたのだろうか。http://www3.coara.or.jp/~chidokan/index.html