南アルプス天然少年団

南アルプス天然少年団

通りすがりの傍観者の足跡。

岐阜紀行〜関ヶ原の群雲〜(7/20)

垂井のこと

岐阜からJRで関ヶ原へ向かう。


途中、垂井を通る。

垂井は高名な軍師・竹中半兵衛重治の居館(菩提山城)のあったところ。
大河ドラマ軍師官兵衛』でもやっていたが、敵城・有岡城に囚われた黒田官兵衛のことを、寝返ったと思い込んだ織田信長が官兵衛の子・松寿丸(のちの黒田長政)を殺すよう命じたが、半兵衛が官兵衛救出までの間、松寿丸をかくまっていた場所である。
田園風景に囲まれた山城で、14年前にここを訪れた時、
(ああ、ここは人を隠すところだ…)
と、なんとなく思ったのを覚えている。


菩提山の麓の寺に半兵衛の墓があり、そのそばに半兵衛の子・重門の築いた岩手城(竹中氏陣屋)がある。
竹中氏陣屋 - Wikipedia
竹中氏陣屋-岐阜県不破郡-〜城と古戦場〜
重門は半兵衛の死の時はまだ少年で、成長してからは豊臣秀吉の旗本となった。
少年時代の逸話として有名なものに、小便にまつわるものがある。
ある時、父の半兵衛が屋敷を訪ねてきた友人といくさの話をしていた。その場に当時吉助といった重門もいた。重門は途中尿意をおぼえて中座したが、あとで父の半兵衛からこっぴどく叱られたという。
「いくさ話の途中で小便に行くとはなにごとか。どうしても我慢出来なければその場でせよ。竹中の子がいくさ話に熱中して小便を漏らしたとなれば、むしろ名誉である」
重門は関ヶ原では当初西軍についたが、東軍側の説得で東軍につき、本戦には吉助・松寿丸の頃からの幼なじみでもあった黒田長政に協力している。
重門の子たちのうち一人は長政に招かれて福岡藩黒田家の重臣となっているから、長政は生涯命の恩人である半兵衛の恩を忘れず、竹中・黒田両家の友誼は半兵衛・官兵衛一代だけにはとどまらなかったようである。
竹中家は江戸期には5000石の旗本交代寄合(参勤交代のある旗本)となり、幕末には竹中重固(若年寄並陸軍奉行。蝦夷共和国海陸裁判所頭取)を輩出している。
江戸時代には旗本は城を持つことが出来ず、このため岩手城は「城」とは名乗れず「陣屋」と呼ばれるようになった。
現在は石垣と門だけが残っていて、中は小学校になっている。


陣屋の隣には「菁莪(せいが)記念館」という竹中氏関連の資料館がある。
14年前、筆者が訪れた時には老齢の職員の方が勤務しておられた。
(この人はきっと生き字引のような人に違いあるまい)
と思い、何か質問してみようと思っていたら、先に見学に来ていた客が質問した。
例の松寿丸が半兵衛にかくまわれた際のことで、
「松寿丸はその時、何歳だったのでしょう?」
というものであった。
すると職員氏の答えは、
「私は最近ここに来たばかりで、よく知らないのです」
というものだった。
さらにその先客が出て行ったあと、まだ筆者が中に居るのに、資料館の電気を消して鍵を閉めようとする始末だったのであった。



また、垂井駅そばには垂井城跡がある。
垂井城-岐阜県不破郡-〜城と古戦場〜
垂井城は関ヶ原合戦当時は西軍・平塚為広の居城(1万2000石)であった。
平塚為広 - Wikipedia
為広は初め織田家家臣・羽柴姓時代の秀吉に仕えたが、のちに一度浪人している(宗旨が当時織田家と対立していた浄土真宗であったため、居づらくなったという説がある)。その後黒田官兵衛の援助で再び秀吉に仕えた。
このため為広は官兵衛に恩義を感じ、有岡城に囚われた官兵衛の生死を確かめに敵城に潜入した、といわれている。
黒田官兵衛とは関わりの深い人物であるが、『軍師官兵衛』には登場していない。
為広は豊臣家に対する忠誠心が強く、また大谷吉継と行動を共にすることが多かったことから、関ヶ原では西軍に属し、吉継・戸田重政らと共に、東軍に寝返った小早川秀秋軍と戦い、奮戦して数度これを撃退している(当初、小早川軍の寝返りは関ヶ原合戦の大勢に影響を与えていなかった)。
しかし、小早川に呼応して東軍に寝返った脇坂安治小川祐忠朽木元綱赤座直保の軍に攻められ、小川軍と戦い討死した。


関ヶ原


関ヶ原に着いた。



まだ、朝の9時前である。
せっかくなので、史跡めぐりをする。
14年前に来ているので、おぼろげながら土地勘がある。


不破関跡。

【不破関資料館】関ケ原町歴史民俗資料館
ここから西が関西か。


六の巷に 待てしばし

平塚為広碑。


為広は前述の通り、関ヶ原で徳川方と戦い討死しているが、死の直前、辞世の句を盟友でもあった大谷吉継に送っている。
「君がため 棄つる命は 惜しからじ 終(つい)にとまらぬ浮世と思へば」
(意訳:君のためになら命を捨てるのも悪くない。永遠に生きられるわけでもないのだから)
その子孫は意外にも徳川家に取り立てられて、旗本となっている。
徳川家は忠誠心から敵方についた者には寛大で、むしろ徳川方に寝返った連中の方が冷たい仕打ちを受けている。
為広を討ち取った軍の将・小川祐忠などは事前に内応の連絡がなかったとして、関ヶ原後に所領を全て没収されている。
旗本平塚家からは、11代将軍家斉の側室・於万の方(勢真院)が出ている(平塚為善の娘)。
勢真院 - Wikipedia
明治から昭和にかけての女性運動家:平塚らいてう( 『元始、女性は太陽であった』)も子孫の一人で、この碑の建立にも関わっている。


さらに奥へ。

だんだんトレッキングの様相を呈してきた。


大谷吉継墓。


石田三成の盟友。幼名・紀之介。少年時代から秀吉に仕えた。
大谷吉継 - Wikipedia
戦も上手く、奉行職も務まる有能な人物で、秀吉からの期待も大きかったが、病(ハンセン病)を得て一時療養生活を強いられた。以後、顔を白い頭巾で覆い、自らのことを「白頭」と名乗ったという。
吉継の娘が真田幸村の妻であることはよく知られている。


関ヶ原の時、当初は三成の打倒徳川の挙兵を諌めたとされる。


しかしその後、三成の覚悟が強いことを悟って共に挙兵することを決意。西軍中枢として働き、前哨において数々の武功をあげた。
関ヶ原の本戦では小早川秀秋の寝返りを予期して平塚為広、戸田重政、織田信吉・長次兄弟(信長の子)らと共に備えた。
案の定小早川軍が寝返ると、これを数度にわたって撃退したが、前述のように脇坂安治らの寝返りによって大谷軍は壊滅。
吉継は死を決意するが、病で崩れた顔を敵に見られることを嫌い、近習の湯浅五助に首を隠すよう命じ、自害した。
その辞世の句。
「契りあらば 六の巷(ちまた)に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」
(意訳:縁があれば、六の巷=仏教用語でいう六道*1=あの世の入口=で待っていてくれ。遅かれ早かれ私もそこへ行くだろう)
これは、前述の平塚為広の辞世の句への返句となっている。


湯浅五助は吉継の介錯をし、その首をこの地に埋めたあと戦場に引き返し、東軍の藤堂高虎の甥・藤堂高刑(とうどう・たかのり。高虎の姉の子。通称・仁右衛門)に討ち取られた。二人は旧知の間柄だったという。
五助は今際の際に高刑に吉継の首を埋めた場所を教え、あとの供養と他言してくれるなということを頼んだ。
関ヶ原戦後、吉継の行方がわからず、五助を討ち取った高刑が何か知っているのでは?ということになり、徳川家康自ら高刑を尋問することとなった。
高刑は正直な男で、吉継の首のありかについて「存じております」と言った。
が、
「五助と約束したことなので、この首を取られてもその場所は言えませぬ」
と、答えた。
家康は吉継が確かに死んだことがわかればそれでよく、むしろ五助との約束を命がけで守ろうとした高刑を褒め、褒美を与えたという。



この吉継の墓はのちに藤堂家によって建てられたもので、右が吉継の墓。
左は湯浅五助の墓で、大正時代に五助の子孫によって建てられた。


雨の関ヶ原

川を渡って東へ。


途中、小雨が降ってきた。
ライブの方は心配だが、小雨の史跡は情緒あって好きである。
主に木立の中をゆくので、雨はさほど気にならない。



宇喜多秀家陣跡。

筆者、この5月に秀家が築城した岡山城に行ったから、再会したような親しみをおぼえた。
宇喜多秀家 - Wikipedia
西軍副大将(大将は大坂城に居た毛利輝元)。
関ヶ原本戦では西軍最大(1万7千)の軍勢を率いて主力として奮戦。
東軍に対する闘争心が旺盛で、西軍の主導者は実は石田三成ではなく、宇喜多秀家であったのではないかという説をとなえる研究者もいる(従来の三成主導説は時系列でいくつか不審なことがあるらしい)。
関ヶ原後は東軍の前田利長(秀家の妻・豪姫が利長の妹)の助命嘆願もあって死罪は免じられ、八丈島へ流刑。
同地で83歳まで生き、関ヶ原に参戦した大名の中では最も長寿を保った。その死の時、徳川家は4代将軍・家綱の時期である。


一時雨が強くなったので、そばにあった建物の軒先で雨宿りした。
さすがに午後のライブの方が気になってくる。


雨の中をさらに東へ。



島津義弘陣跡。

島津義弘 - Wikipedia
島津家は関ヶ原戦後、一時期宇喜多秀家を匿っていた。


雨脚がだいぶ弱くなってきた。
やがてやみ、少し晴れ間も出てきた。



時刻はそろそろ昼前。
いよいよ東軍・徳川家康本陣(桃配山)へ出撃することにした。
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