南アルプス天然少年団

南アルプス天然少年団

通りすがりの傍観者の足跡。

「『刻め、我ガ肌ニ君ノ息吹ヲ』再演」感想

(公演終了につきネタバレあり。ラスト近くについても述べておりますので、未見でDVDを楽しみにされている方は読まないか、読んでも斜め読みしてください)




今回の舞台は再演もの。
しかも短い間に何度も上演(初演2009年4月、劇団外作品2009年7月)されていたり、『外伝』(2009年11月)まで作られている。
つまりは評判が良かったということで、安心して観ることが出来る。



時は戦国時代――。
白い肌と赤い目に生まれたために鬼として追われる白狐丸と、目の前で両親を惨殺されて以来記憶が一日しか保たなくなった遊女・静との悲恋物語
記憶がないために世俗にまみれた先入観で人を見ることのない静に白狐丸は惹かれ、また静は懸命に彼女の記憶を残そうとする白狐丸に好意を抱く。
そして白狐丸の相棒・外道丸と、静をいたわる姉さん遊女・常葉との、これも悲恋となる挿話がもうひとつの軸になっている。



構成は、白狐丸や静が生きた時代、当時を知る老人が回想する時代、そして白狐丸と静の伝説を追う現代、という三重構造になっている。
それぞれの時代に語り部が居て、一歩間違えると混乱しかねないのだが、そこはよく整理されていてわかりやすい。


当時のことに強い興味を持つ若者*1が老人の元を訪ね、老人の口から往時が語られる…という構成は、おそらく映画『アマデウス』*2あたりが元ネタだと思われるが、史実にも結構こういう話は多い*3ので説得力がある。
モデルが『アマデウス』だとすれば、老人(盲の男)はモーツァルトを語るサリエリ役。だから白狐丸と静の時代の誰かの後の姿であることはすぐわかる。
一方、現代の方は、主導的立場をとるメグミが、このことについてなぜ興味を持ち、調べているのかがやや希薄なのが惜しまれる。



野武士の描き方がまるで山賊か野盗のよう(『七人の侍』の悪影響か?)というのも気になるが、やはり問題となるのは瀬戸であろう。
仕官もしていない浪人なのに、なぜ廓に居座れるほどの金を持っているのか謎。
仮に大金を持っていたとしても、やり手の廓の女将が仕官もしていない浪人の言いなりになるものかどうかについても疑問が残る。
また、瀬戸自らが語っているように、白狐丸は都では鬼ではなく単なる“白子”。その白子の首をとって都で仕官してやろうというのはもう、わけがわからない。


この瀬戸というキャラクターは、ハロー!系の舞台ではなかなかお目にかかれないほどの極悪非道冷酷残虐卑怯姑息…えーと、あと何があったっけ?…というほどの悪役なのだが、それだけに白狐丸と静とを悲恋に終わらせるために無理して創作したキャラクターにしか見えないのである。
誰もが納得する悪役というものを作り上げるのは、なかなか難しいものなのかもしれない。


その瀬戸が誰かを抱き込もうとする際に発する「都」というキーワードにも違和感を覚えた。
戦国時代ならば都は荒廃していてむしろ地方の方が充実していたはず。京から公家が地方へ逃げ出すほどだったのだから(もっともこれは戦国時代のどの時期かにもよるのだが)。



また、両親に死なれて身寄りがなかったはずの静が、「後に親戚に引き取られた」という後日譚が語られるが、それなら最初から引き取られていたろうに…。
これにはちょっと拍子抜けした。


現代の場面に於いては、メグミに付き合わされているハジメが、人々に追われ続ける白狐丸に共感するのが過去にいじめ体験があったから…というのはまあわかるが、彼が過去を克服しようといじめた相手に携帯で「あやまれー!」と叫ぶのには正直失笑してしまった。それじゃ所詮は弱虫の遠吠え。なんにも克服出来てないじゃん…。御手洗教授が拍手してる意味がわからない。あれでいいわけがない。


上記の事柄から、筆者は途中からはストーリーに対する興味はやや薄れてしまい、あとはただ役者個々の芝居やら殺陣やらを追うこととなった。
しかし、それはそれで充分楽しめるものだったし、舞台全体としては実に力のこもった作品であったということは特記しておきたい。
殺陣については、前の方の席で見ると、巻き添えをくったらどうしよう…とさえ思うほどの迫力だった。



役者に関しては、その立ち振舞いに魅了された。
舞台、とくに時代物における立ち振舞いということの重要性を認識させられたのは、モーニング娘。宝塚歌劇団が初めて手を組んだ『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』(2006年8月)の時であった。これは当時たまたま、とある宝塚ファンによる舞台上における“立ち振舞い”という観点から考察した同作品の批評を読んだことによる*4
宝塚ファンの方が、時には演技力や歌唱力よりもこの“立ち振舞い”というものを重視していることを知り、目から鱗が落ちたと同時に、観劇する際の楽しみのひとつが増えたのである。
その点、今回の大谷雅恵殿は、初演で静役を務めた創木希美殿はじめ、時代物の多いASSH作品常連役者陣に比べると、やや分が悪い。
しかし、それが芝居全体に悪影響を与えているかというとそうでもなく、むしろ静という人物の特異性を際立たせている。
静はそもそも記憶が一日しか保たないのだから、儀礼的なものは覚えていなくてもいいし、動きもある程度自由でいい。そこには、「こういう静もアリだろう」という演出意図が感じられる。
Wキャストについてもそうで、客演主体による<刻>とASSH主体による<我>というように、一度の公演で劇団公演とプロデュース公演の双方が楽しめるということの他に、作・演出のまつだ壱岱氏が役柄をひとつの固定観念にとらわれることなく、こういうのもアリなんじゃないか、こういうのもアリなんじゃないか、と探し続ける姿勢が大きいのだと思われる。
(だからハロヲタ的には、例えばこの作品をUFAが再演するとして、女優陣は誰がどの役を演るんだろう?…などと考えながら観るのもまた一興である)
公演のたびに白狐丸と静のキャスティングを変えたり*5トークショーにての大谷発言のように、まつだ氏がダメ出しをあまりしないというのもその表れかもしれず、演者との相乗効果による新しい役柄の発見を求めているように思われる。これはひとつには、まつだ氏が本来役者であるということも関係しているかもしれない。
もちろん、「ここはこれしかない」と決断するのも演出家の大切な仕事であり、それは決して否定すべきものではない。
しかし、固定観念にとらわれ過ぎて逆にイメージが貧困になってしまう危険性もはらんでいる。


そう考えれば、まつだ氏のその姿勢は、
「あなた、眼(まなこ)が赤いのね♪」
という、劇中の静の白狐丸に対する“好意的な”セリフの如く、役者個々の特性を出来るだけ活かそうという手法であり、他人を先入観で見ることのないヒロイン・静の姿そのものと言えるかもしれず、なにごとも固定観念にとらわれることなく見てやろうというのが、この舞台全体を貫くメッセージであるかもしれない。





――「『刻め、我ガ肌ニ君ノ息吹ヲ』再演」、完了――
 
 

*1:彼=天刻丸が、何故白狐丸と静のことに興味を持っているかは物語のラストに語られる。

*2:原作は舞台。

*3:江戸初期、尾張藩士の山澄淡路守が長命していた織田信長の馬丁を訪ねた聞き書き(『山澄本桶狭間合戦』)や、やはり江戸時代になってから村瀬安兵衛が豊臣秀吉の旧臣・佐柿弥右衛門(常円)を訪ねて高松城水攻めの詳細を記録したもの(『佐柿常円入道物語』)など。

*4:モーニング娘。及びハロプロ勢は概ね一定の評価を得ており、何人かは高い評価がされていた。

*5:大谷雅恵殿は通算5人目の静役である。