南アルプス天然少年団

南アルプス天然少年団

通りすがりの傍観者の足跡。

しかみ像のこと

この絵のことである。

徳川家康三方ヶ原戦役画像」、通称「しかみ像」(徳川美術館所蔵)


通説では、三方ヶ原の戦で大敗を喫した家康が、絵師を呼んで敗戦直後の自分の姿を描かせ、常にそばにこの絵を置いて以後の戒めとした…とされており、筆者も先日訪れた浜松城についての項でそのように紹介した。
新・街道をゆく〜浜松のみち〜前編
浜松城ではメインの展示として、三方ヶ原の合戦の経緯が人形・ジオラマ等で再現されており、家康が絵師にこの画像を描かせている様子や、このしかみ像を立体的に再現したものが展示されていた。

また、浜松城にはボランティアの解説員の方々(多くは高齢の方)がいて、頼むと詳しく説明してくれる。


浜松城のガイドブックでも、“浜松やらまいか大使”のももクロ百田夏菜子殿がこの画像を再現している。

このガイドブックにも、城内の展示を家康自身やその足跡をできるだけわかりやすくするために、人形やジオラマなどを使って「見える化」を推し進めた、と説明されている。
人形・ジオラマなども一流の職人に制作を依頼したらしい。


ところが、実はこの画像に関しては、画像のある徳川美術館名古屋市)の学芸員の原史彦氏によって、今年の8月に新説が発表されていたのである。
つまり、この画像は三方ヶ原の戦とは関係ない、というものである。


家康の「しかみ像」は三方原の戦いとは無関係?<家康編13> : 中部発 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
(読売新聞。2015年10月24日)

この画像は、江戸時代中期の尾張徳川家9代の徳川宗睦(1733〜99年)の嫡男の妻で紀伊徳川家から嫁いだ従姫が1780年に持ってきた嫁入り道具だったことが判明したのだ。
家康の画像とは伝わっていたため、従姫の死後の1805年に、尾張家が家康ゆかりの物を収める「御清御長持」に加えられた。ただ、江戸時代にはこの画像が三方原と結びつけられてはいなかった。

三方原の敗戦の図と初めて紹介されたのは、1935年(昭和10年)に徳川美術館が開館した翌年1月のこと。その際は、家康が自ら描かせたのではなく、尾張家初代の徳川義直が父親の苦難を忘れないように描かせたとされていた。この話を地元新聞での対談で語ったのが、美術館を創設した19代の徳川義親氏(1886〜1976年)だったため、その後、三方ヶ原戦役画像として定着。72年に刊行された収蔵品図録で、義直ではなく家康が自ら描かせ、生涯座右を離さなかったと記されたことで、現在の「しかみ像」のイメージが固まったという。
原さんは「義親氏は厳密な歴史性からこの逸話を持ち出したのではなく、開館したばかりの美術館を宣伝するキャッチコピーのような感じで、サービス精神から言ったのではないか。それがいつの間にか様々なメディアで流れることで定説化していった」と話す。表現方法などから、江戸時代に描かれたもので、その表情も悔しがっているのではなく、当時よくあった、仏教的な怒りの表情だろうと原さんは推測する。


徳川義親氏は、幕末の四賢候のひとりで坂本龍馬と親交があったことなどでも知られる越前藩主:松平慶永(春嶽)の五男で、徳川義禮の養子となって尾張徳川家を嗣ぎ、19代当主となった。尾張徳川家の古文書・家宝を管理する目的で徳川美術館を開設。生物学者でもあり、昭和天皇の兄弟弟子にあたる。文化女子短期大学初代学長。


しかし、この説が本当だとすると画像の発祥も尾張家でなく、紀州家ということになる。


歴史作家・歴史研究家である桐野作人氏のツイート。


なるほど、そういえばそうだ…(笑)

千田さん(筆者注:千田嘉博奈良大学長)は「しかみ像は、家康が神格化されたことが背景にあり、様々な困難に耐えて耐えて最後に天下人になったという後世のイメージが投影されたものだと思われます」と評価する。果たしてこの像は誰なのか。そしていったい何を思っているのか。原さんは近く論文を発表する予定で、学術的な論争の行方が注目される。

しかしこの説が真相だとすると、浜松城は困るだろうなぁ。
一生懸命説明してくださったボランティアの方々がちと気の毒になる…。