『4年に一度じゃない。一生に一度だ。』
まぁ「一生に一度」ってことはないでしょう。
サッカーと違ってラグビーはワールドカップが開催(とくに単独開催で)出来る国はそんなにたくさんないので。
ラグビーワールドカップ小史
回 | 年 | 開催地 | 優勝 | 準優勝 | 日本の成績 | 監督/HC | 主将 |
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1 | 1987 | NZ・豪州 | NZ | 仏 | 予選3敗 | 宮地克実 | 林敏之 |
2 | 1991 | 英・仏 | 豪州 | イングランド | 予選1勝2敗 | 宿澤広朗 | 平尾誠二 |
3 | 1995 | 南ア | 南ア | NZ | 予選3敗 | 小籔修 | 薫田真広 |
4 | 1999 | ウェールズ | 豪州 | 仏 | 予選3敗 | 平尾誠二 | アンドリュー・マコーミック |
5 | 2003 | 豪州 | イングランド | 豪州 | 予選4敗 | 向井昭吾 | 箕内拓郎 |
6 | 2007 | 仏 | 南ア | イングランド | 予選1分3敗 | ジョン・カーワン | 箕内拓郎 |
7 | 2011 | NZ | NZ | 仏 | 予選1分3敗 | ジョン・カーワン | 菊谷崇 |
8 | 2015 | イングランド | NZ | 豪州 | 予選3勝1敗 | エディ・ジョーンズ | リーチ・マイケル |
9 | 2019 | 日本 | ジェイミー・ジョセフ | リーチ・マイケル | |||
10 | 2023 | 仏 |
※2005年に監督から役職名をヘッドコーチに変更*1。
長く厳格なアマチュアリズムをとってきたラグビー界はホーム&アウェイでの国際試合を基本とし、第三国での試合を禁止していた(ラグビー後進地域であるアジア大会のみ、普及に意味があるとして例外とされた)。
1983年、オーストラリア・ニュージーランド両協会が国際ラグビーフットボール評議会(現・ワールドラグビー)にワールドカップの開催を提案したが、却下された。
しかしその後も両協会は運動をつづけ、ようやく1987年にワールドカップ開催が実現(オーストラリアとニュージーランドの共同開催)。予選はなく、16チームが推薦により出場。
日本は第一回大会から参加し、連続出場している。
1987年の第一回大会、プレースキッカーを軽視したメンバー編成、ラインアウトで弱点を露呈。同格のアメリカ、格上のイングランドに連敗。オーストラリアには善戦するものの全敗。
1991年、稀代の戦略家・宿澤広朗を監督に迎え、ミスターラグビー平尾誠二主将のもと、前々年にスコットランドXVに勝った勢いでスコットランド・アイルランドに善戦、エース吉田義人の大活躍もあって古豪・ジンバブエに勝ってW杯初勝利。「世界の背中が見えた」はずだったが…。
無能な監督に率いられた不毛の4年間を経た1995年大会、一部コーチ・選手のモラルの低下が激しかった(ゴルフやカジノで忙しかったらしい)が、意識高い選手の頑張りもあってアイルランドとは互角の勝負。大会運営の評価は高く、敗れたのに「マン・オブ・ザ・マッチ」に日本のNo8シナリ・ラトゥーが選出された。しかし、首脳陣がなんの対策も取らずにいたNZ戦で歴史的大敗(17-145)。
1999年はレギュラーと控えの差が埋めきれず、初戦で負傷したFB松田努の穴を埋めきれず、ディフェンスが崩壊。大舞台に弱いトライゲッターも得点には結びつかず惨敗。帰国後の記者会見で「データは得た」などという学者コーチに対して報道陣から怒号がわいた。
その後はプロ化に乗り遅れ、世界との差を埋めきれず、善戦や引き分けはあったものの勝ちきれず。
2011年大会、ラグビー界のスーパースターで親日家のジョン・カーワンをHCに迎えて期待されたが、必勝のトンガ戦に備えるべくNZ戦に主力を温存して惨敗、結局トンガにも敗れてカナダと引き分けるのがやっとだった。
その後若手の強化委員が頑張って、やる気のない協会上層部の反対を押し切って、エディ・ジョーンズをHCに迎え、2015年大会で結果を残したのはご存知の通り。
――つづけ――