南アルプス天然少年団

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通りすがりの傍観者の足跡。

『降臨Fight』に関連して〜三成とおりんの子供たちの運命〜

石田三成と妻・皎月院(こうげついん)との子については、従来から諸説あってわからないことが多かった。
しかし近年、三男三女が居たことがわかっている。

長女 名前不詳。山田隼人正室
次女 名前不詳。岡半兵衛重政室。
長男 隼人正重家。
次男 隼人正重成。
三女 辰姫。津軽信枚室。
三男 佐吉。


このように、「隼人正(はやとのかみ/はやとのしょう)*1」を名乗る人物が複数居たことも混乱の一因となっていたようである。


この三成と皎月院の子供たちの“その後”には、意外な人物たちの男気や好意があった。



高僧となり天寿を全う(長男・三男)

長男の重家と三男佐吉は関ヶ原合戦当時、三成の居城・佐和山城に居た。
関ヶ原の敗北後、佐和山城は東軍に寝返った小早川秀秋軍の攻撃を受け、三成の妻・皎月院、三成の父・正継、兄・正澄、それに皎月院の父・宇多頼忠は自害する。
重家は祖父・正継に命じられて城を脱出し、三成との親交が厚かった京都妙心寺・寿聖院の伯蒲和尚を頼った。同和尚の奔走により家康に助命され、出家し、「宗亨」と名を改めた。40歳で寿聖院住職となり、85歳で隠居。その後は岸和田藩主・岡部宣勝(岡部家は今川氏旧臣で徳川譜代大名)の庇護を受けて余生を送った。長命し、享年108歳。既に世は五代将軍綱吉の時代であった。



また、三男佐吉は伯父正澄の家臣・津田清幽により救出され、清幽の徳川家との交渉が功を奏し助命される。高野山へ入り、出家。
のち甲斐(山梨県)の多門院薬王寺の住職となり、「深長坊清幽和尚」と称される。「清幽」という法名は自分の命の恩人である津田清幽にあやかったものであろうか。徳川家からの援助も受けていたらしい。没年80余歳と、彼も天寿を全うしている。




三成の血は大奥へ(長女・次女)

三成の長女は、石田家重臣であった山田上野介の子・隼人正の妻となり、四人の子(三男一女)を産んでいる。
上野介は関ヶ原合戦の時には佐和山城にあり、皎月院らと共に自決したが、息子の隼人正は脱出し、遠縁にあたる豊臣秀吉正室高台院(おね)の筆頭侍女・孝蔵主(こうぞうず)を頼った。孝蔵主は三成とも遠縁にあたるとされている。
父・上野介の妹(隼人正の叔母)が徳川家康の側室・茶阿局であったことから茶阿局の子・松平忠輝(家康六男。伊達政宗の娘婿)に仕え、家老を務めた。
忠輝が大坂夏の陣での不行跡を咎められ改易・流罪となると、弘前藩津軽家(後述)の援助を受けて江戸に住み、山田草山と号した。享年80歳。
妻(三成の長女)はその八年前に69歳で江戸で没。



三成の次女は会津の領主・上杉景勝に仕えていた岡半兵衛重政に嫁ぎ、六人の子に恵まれている。
この婚姻は、景勝家臣である直江兼続の斡旋によるものとされているが、実はこの岡半兵衛も前述の孝蔵主の縁者なのである(孝蔵主の弟の子・川副久左衛門正真の妻が半兵衛の姉)。
半兵衛は上杉家の前に会津を領していた蒲生氏郷の旧臣で、関ヶ原の後に上杉家が減封、会津から米沢に移されると、再び会津を復した蒲生家に仕え、家老を務めた。
しかし、慶長会津地震(1611年)の復興策を巡って藩主・蒲生忠郷(氏郷の孫)の生母・振姫(家康三女)と対立し、のち切腹させられている。
妻である三成次女と子らは半兵衛の故郷・若狭国福井県)小浜へ移り、医師・半井驢庵(豊臣家・徳川家の主治医)の保護を受けた。
三成次女はこの地で亡くなったと思われるが、没年は不詳。


岡半兵衛と三成次女の嫡男・岡吉右衛門の妻は祖心尼の娘である。
祖心尼という人は江戸城大奥の基盤を作った春日局の姪にあたる人で、叔母である春日局の補佐役を務め、のちに跡をついで大奥の最高実力者となった人物。
しかし、若い頃には苦労した人で、最初の結婚(加賀藩前田利長の甥・直知)に失敗したのち、京都妙心寺で禅学の修行を努めたという。
この頃、彼女の面倒を親身となって見たのが、同じく妙心寺に居た宗亨(三成の長男・重家)であったらしい。
のち、宗亨とその義兄・岡半兵衛の仲介により、彼女は会津蒲生家の重臣・町野幸和の後妻となり、娘・於たあを産む。
この縁で於たあは半兵衛の子の吉右衛門に嫁ぐことになったのである。
さらに吉右衛門と於たあの娘・お振は、やがて大奥の実力者となった祖心尼の推挙で三代将軍家光の側室となり、千代姫を産んでいる。
千代姫は徳川御三家のひとつ尾張家の二代藩主・光友に嫁ぎ、三代藩主となる綱誠を産んだ。
意外なことに、三成の血は徳川家に入ったわけである。




津軽家の男気(次男・三女)

次男の重成は関ヶ原合戦当時、豊臣秀頼の小姓として大坂城にあり、三女の辰姫は秀吉正室高台院の養女となっていた。
この重成と辰姫については、比較的知られているように弘前藩津軽家に匿われている。


では、三成と津軽家との関係について。
津軽地方は戦国期に於いては、陸奥国北部(青森県岩手県)を本拠とする南部家の領土であった。
戦国末期、南部家で内紛があり、その隙をついて津軽為信(当時、大浦為信)は独立し、津軽地方を平定した。
この時がちょうど豊臣秀吉の小田原攻めの時で、秀吉は「惣無事令」を発して大名間の私闘を禁じ、関東・東北の諸勢力に小田原に参陣するよう促した。
伊達政宗がこれに反し会津の芦名氏を滅ぼし、小田原に遅参した為に後日罰を受けたが、この点、為信も危ないところであった。
しかし、為信は政宗と違っていち早く小田原の秀吉のもとに駆けつけたこともあり、所領を安堵された。
この時、三成が為信の為に随分と骨を折ってやったらしい。
その後、為信の長男・信建の元服の際の烏帽子親を三成が務めたりと、親密な関係にあった。


だが、為信は関ヶ原の時には東軍についた。
これは領国が東軍の大名領に囲まれていた為にやむを得なかった、とされている。
しかし為信は三成の恩を忘れてはおらず、関ヶ原の戦後、三成の子を保護した。
それも逃げて来たから助けたというなような受け身なものではなく、やはり豊臣秀頼の小姓として大坂城に居た嫡男・信建をして敦賀に脱出させ、そこから日本海沿いに渡らせて弘前に迎えた。
辰姫はこの時に兄の重成と行動を共にしたとも、後日、高台院のもとから津軽へ送られたともいわれる。
もちろん、津軽家としても政略的な意味はあったであろう。
関ヶ原で家康が勝ったとはいえ、まだまだ徳川の天下が続くとは限らなかった。
東北の端にいる津軽家にとって、中央との繋がりを持っておくことは大切だったはずである。
依然として大坂には豊臣家が存在していた。石田三成の子がいるというのは、ことあらば重要なカードになったはずである。


やがて信建も為信も相次いで病死した為、津軽家は信建の弟(為信三男)・信枚(のぶひら)が継ぐことになるが、辰姫はこの信枚の正室となっている。
のち徳川家康が養女(異父弟・松平康元の娘)の満天姫(まてひめ)を津軽家に輿入れさせることを決めた為、津軽家としては三成の娘が居てはまずいということになり、辰姫は側室に降格され、弘前藩飛び地で関ヶ原後に加増された上野国大館(群馬県太田市)に移された。以後、辰姫は「大館御前」と称される。
しかし、信枚の辰姫に対する愛情は変わらなかったらしく、参勤交代のたびに大館を訪れ、辰姫はこの地で信義という子を産んでいる。
辰姫は32歳で世を去るが、信義は満天姫の養子となり、津軽家を継いだ。
信枚が「どうしても信義を世継ぎにしたい」と満天姫に懇願した為、と伝えられる。
信義の妻は満天姫の姪にあたる富宇姫(満天姫の実父松平康元の子・康久の娘)で、石田家と徳川家はここでも縁が繋がったことになる。*2


一方、重成は「杉山源吾」と名を変え、津軽家の客分となった。
妹の辰姫が大館に移されると、彼も大館に移っている。
のち、重成の長男の八兵衛(吉成)と次男の掃部(石田掃部)は弘前に呼ばれて津軽家に仕官するが、辰姫が死ぬと、重成は三男の嘉兵衛(成保)と共に江戸に移り、義兄(三成長女の婿)の山田草山の隠宅近くに住んだらしい。前述のように草山が津軽家の援助を受けたのもこの縁によるものと考えられる。重成享年53。


重成の長男・八兵衛吉成は、津軽信枚が別の側室に生ませた娘(子々姫)を妻とし、弘前藩家老を務めた。
以後、杉山家は津軽家にあっては準一門格として家老を輩出する家となり、幕末に至っている。
幕末の家老・杉山上総(かずさ)は当初は弘前藩佐幕派のリーダー格だったが、戊辰戦争が始まると新政府軍に味方することを決めた藩主・津軽承昭(つぐあきら)の命に従い、箱館戦争に官軍として参戦。維新後、名を杉山龍江(りゅうこう)と改め、青森県の要職を歴任している。
三成の子孫が佐幕派であったということには、歴史の不思議さを感じずにはいられないが、龍江は明治天皇の東北巡幸を願い出る長文の建白書を提出したり、海老原穆(えびはら・ぼく。旧薩摩藩士)の「評論新聞」(大久保利通太政官政府に対する痛烈な批判を展開した新聞)にも参加しているから、三成に通じる反骨の人柄を思わせる。
こちらは子孫が今も青森県に在住しておられる。*3




以上のように、三成と皎月院の子らは様々な人々の好意や援助を受け、徳川の世を生き延びている。
これは石田三成という人物が生前、同時代を生きた人々から敬意を受けていたことの証拠にもなるであろう。
また、三成の娘三人の婚姻については、三成の遠縁にあたる孝蔵主や、その主人である高台院の意向があったことは想像に難くない。
ちなみに、孝蔵主の実家・川副家の人々(久左衛門正真とその子・弟たち)は関ヶ原では会津の上杉軍に加わり、直江兼続らと共に徳川方と戦っている。
これらのことからは、高台院と三成・兼続の良好な関係が想像され、「高台院が“淀殿派”の三成とは不仲で、関ヶ原の時に自分の影響下にある武将たちを徳川方につかせた」とする従来の説は覆される。



家康弟の血筋との奇妙な関係

ついでながら、津軽信枚のもう一人の妻・満天姫についても触れておく。
彼女は信枚とは再婚で、初め福島正則の養子(正則姉の子)・正之に嫁いだ。
正則に実子が生まれると正之は養父とは不和となり、正之は幽閉されて死に、満天姫は実家に戻され、身籠っていた正之の子を産んだ*4
満天姫は信枚との間には信英という子を産む。*5
信英は異母兄・信重(三成の孫)の死後、その子信政の補佐役を務め、弘前藩支藩・黒石藩の祖となった。



その満天姫の実父は、徳川家康の異父弟・松平康元である。
康元は家康の母・於大の再婚相手、久松俊勝の次男。
関ヶ原の当時は家康名代として江戸城留守居役を務めた。
下総国(千葉県)関宿藩四万石。
この康元の孫娘である富宇姫が、三成の孫にあたる津軽信義に嫁いだことは既に触れた。
また、三成の長男・宗亨(重家)の晩年の面倒を見たのが、岸和田藩主・岡部宣勝であることも既に触れた。
実は、この岡部宣勝も松平康元の孫(康元の娘の子)なのである。





このように、三成死後の石田家の人々は、意外なことに徳川方の人々との関係が濃い。
これは、徳川家が三成のことを敵とはいえ、決して憎んではいなかったことの証拠となるかもしれない。
また、徳川幕府が広めた朱子学などの忠孝の精神からすれば、三成は「主家に殉じた忠臣」ともいえる。
戦場で命のやり取りはあるものの、当時の人々は、敵というものを現代の我々が想像する以上にスポーティーな関係として捉えていたのではないだろうか。





■参考文献
北政所は三成の決起を支持していた〜欺瞞に満ちていた関ヶ原の対立構図〜』『三成の子孫は生き延びていた〜封印を解かれた敗将の血脈〜』(白川亨)
『名画日本史〜関ヶ原合戦図屏風〜』(田岡俊次



――『降臨Fight』、了――
 
 

*1:「隼人正」は元来、律令制の隼人司の長官の官名なので、「はやとのかみ」が正しかったはずである。しかし時代が下ると「はやとのしょう」と読むのが普通になってしまったらしい。ホントは「杉浦太陽(すぎうらたかやす)」なのにみんなが「たいよう」と読むので、芸名を「すぎうらたいよう」にしちゃったようなもんである。

*2:津軽家出身といえば常陸宮華子妃が高名であるが、信重の子孫は途中で血脈が絶えた為に、残念ながら妃殿下は石田三成の子孫にはあたらない。

*3:現存する代表的な石田三成画像は杉山家の所有である。

*4:満天姫と正之との間に生まれた子は、母の再婚に伴い津軽に行き、津軽家家老の大道寺直英(小田原北条氏の重臣・政繁の養子)の婿養子となり大道寺直秀と名乗る。のち、改易された福島家再興を企てたが、急死している。これは津軽家に災いが降りかかることを怖れた実母の満天姫や養父大道寺直英らによって毒殺されたという説もある。また、満天姫が津軽家に嫁ぐ際に家康にねだって貰っていったとされる「関ヶ原合戦図屏風」(重要文化財。通称「津軽屏風」)であるが、実はもともと福島家の所有物ではなかったかとの説が有力である。

*5:信英は満天姫の子ではないとする説もある。