松代へ
「NAGANO IDOL BOX」の翌日――。
前日と打って変わってこの日は好天。
長野のホテルに一泊した筆者は、前日アプガ本軍が戦国期の真田氏の居城である上田城を攻略したので、江戸期に入ってからの真田氏の居城である松代城の攻略を目指すことにした。
長野駅からバスで松代に向かう。
松代線(長野〜川中島古戦場〜松代)
松代駅はかつて長野電鉄屋代線の駅であったが、現在は廃線になっていて駅舎の跡だけが残っている。
松代も真田氏の街ということで六文銭だらけ。
こんなところにも…。
松代の紅葉。
ちょうど昨夜のNAGANO CLUB JUNK BOXのアンコールがオレンジ一色でこんな感じだった…(笑)
松代城攻略記
ここから東へ歩くとすぐに真田宝物館があり、その先を曲がると松代城が見えてくる。
真田信之(信幸。幸村の兄)の居城である。
信之は昌幸の長男で、早くから真田軍の一手の大将として活躍。豊臣政権下では父とは別に上野国沼田(群馬県沼田市)3万石を領し、徳川家の与力大名*1となった。
妻は徳川家康の養女(本多忠勝の娘)・小松殿である。
関ヶ原でも父や弟とは別行動をとり、東軍・徳川方に与して秀忠率いる中山道軍に属した。戦後は自らの武功と引き換えに、一度は死罪と決した父と弟の助命を嘆願している。妻・小松殿とその実父・本多忠勝の協力もあり、昌幸と幸村は一命を救われている。
戦後父の上田領を相続し、沼田領と合わせて9万5千石(上田城は破却された為、本拠は沼田)を領した。
1622年に上田からこの松代へ加増移封(沼田と合わせて13万石)。加増とはいえ、関ヶ原当時に父・昌幸と弟・幸村に苦しめられた徳川秀忠の嫌がらせのひとつとされている。
信之は、昌幸や幸村に比べて知名度・人気とも低い人物であるが、人物・能力的にも遜色なく、たまたま立場的にそうなっただけで、父や弟と立場が入れ替わっていれば同様の実績をあげた人物であったと思われる。
なお、真田氏は一般的に外様大名だと思われがちであるが、実際は信之が関ヶ原以前より徳川家康の組下大名であったこともあり、譜代大名の格を与えられている。
松代城は映画『清州会議』で清州城としてロケに使われた。
確かに江戸期の城というよりは戦国期の城っぽい。
好天のおかげで山がくっきり見える。
中に入るとすぐ本丸。
ガランとしている。
松代城本丸は享保2年(1717年)に火事で焼失、その後御殿だけはあったが、それものちに別の場所に移築された。
石垣や土塁は当時のもので、再建すべく発掘調査が行われているらしい。
鉄砲狭間と弓狭間。
縦長のものが弓用、正方形に近いものが鉄砲用。
本丸内には松代城の前身である海津城跡の碑もある。
海津城の築城時期はよくわかっておらず、一説には武田信玄が上杉謙信との戦いに備えて軍師の山本勘助に命じて築城させた、という。
本丸から出ると、校外授業であろうか、小学校低学年の体操服の集団が引率されて来て、城の前で体操を始めた。
屈伸運動を始めたが、昨夜アプガのライブを観たためか、『イチバンガールズ!』のイントロ部分に見えてしまうのであった…(笑)
――つづけ――
*1:より大きな大名に加勢として附属させられた大名