南アルプス天然少年団

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通りすがりの傍観者の足跡。

雨飾山・第三日松本編

第三日(つづき)

糸魚川から再びJR大糸線に乗った。
今度は松本へ向かって南下してゆく。
信濃大町の手前で、副長がトイレに行きたくなったらしい。
信濃大町ならかなりの時間停まるだろう」
ということで、副長が車掌にどれくらい停車するか尋ねたところ、40分停まるというので、団長と筆者も降りることにした。
駅前で買い物して電車に戻り、松本をもって目指す。



松本に着くと、駅近くの「EATING HOUSEつぶて」という店で昼食を食べた。
そのあと、松本城へ向かった。





松本城は現存する城の中では三番目に古い、とされている(一、ニ番は犬山城丸岡城)。
戦国期に建てられた天守閣は現在全国で12しか残っていない。
弘前、松本、丸岡、犬山、彦根、姫路、松江、備中松山、丸亀、松山、宇和島、高知であり、これを「現存十ニ天守」という。
現在の松本城天守閣は、文禄・慶長年間(1590年代後半)に石川数正・康長父子が建てたもの。
もともとは深志城といい、名門・小笠原氏(信濃守護職。礼儀作法などの小笠原流の宗家)の居城であった。




戦国時代、小笠原長時武田信玄に追われ、越後・上杉謙信の元に逃れる。
ここまでは村上義清と同じだが、その後が異なる。



その後長時は、阿波(徳島県)を本貫とする三好氏(小笠原氏の支族)を頼り、室町幕府を仕切っていた三好長慶の推挙で13代将軍・足利義輝馬術指南役となる(小笠原流礼法には馬術もある)。
義輝が暗殺され、長慶が死んで三好氏が衰えると、再び越後へ戻り謙信に仕え、謙信の死後跡目争い(御館の乱)が起こると、今度は会津まで逃れ、芦名氏を頼った。
長時はこの会津で死去している(病死説と家臣に殺された説とがある)。



長時の子・貞慶は三好氏が没落した後織田信長に仕え、信長の死後に、徳川家康の支援を受けて旧領を回復。この時深志城を「松本城」と改めた。
のち豊臣期になると貞慶は徳川重臣石川数正と共に家康の元を出奔、秀吉に仕えた。
数正が松本城主となり、貞慶は讃岐(香川県)半国を与えられるが、のち秀吉の怒りに触れ領地没収。関東へ行き、再び家康に仕えた。




どうもこの長時・貞慶父子の行動を見ていると、礼儀作法の家なのに人に対する信義とかが感じられない。
その点、貞慶の子・秀政は首尾一貫して家康に従っている。
祖父や父を見て反面教師としたのか。
若い頃から苦労している(祖父や父の流浪時代に出生)為か。
また、秀政は顔つきが家康によく似ていて、家康に可愛がられた、ということもあったらしい。
なお、秀政の妻は家康の孫である。




石川康長が大久保長安事件に連座して没落すると、秀政が松本を与えられ、小笠原氏が松本城主に返り咲く。8万石。
秀政は大坂夏の陣で豊臣方の名将・毛利勝永と激戦に及び、小笠原軍は全滅。長男・忠脩が討死し、秀政も重傷を負い、のち死去。
家康は父子の死を惜しみ、次男・忠真に家を継がせて播磨明石へ移し10万石に加増。のち豊前小倉藩主(15万石)となり幕末まで続く。



のち肥前唐津藩主の分家も出来(6万石)、その子孫には幕末の老中・小笠原長行、その子で海軍中将となる小笠原長生(日露戦争当時の軍令部参謀)がいる。



なお、長生の長男が無声映画時代の映画監督・小笠原明峰(本名長隆)、次男が俳優・小笠原章二郎(楠英二郎。本名長英)。
日露戦争を描いた長生の原作『撃滅』を明峰が監督、章二郎が父の役を演じている。
また、女優・松井康子は長生の孫(明峰・章二郎の妹の子)である。





さて、その後松本城主はいろいろと替わるが、享保10年(1725)より戸田氏が入り、以後幕末まで続く。6万石。



この戸田という大名がまたいわくつきの家である。



徳川家康が幼少期に人質生活を送ったことはよく知られている。



家康は三河(愛知県東部)の弱小大名・松平広忠の子に生まれた。
松平氏は隣国駿河遠江(静岡県)の今川氏と尾張(愛知県西部)の織田氏に挟まれ、双方から圧迫を受けた為、広忠は今川傘下につくことにし、息子の家康を人質として送ることにした。
家康は途中、戸田氏の祖である康光の元に立ち寄った。康光は広忠の後妻(家康の継母)の父で、当時は松平氏と同格の小大名であった。
家康一行は康光に舟を借り、駿河へ向かおうとしたのだが、康光は変心し、家康を尾張織田信秀(信長の父)の元に送ってしまった。
信秀は喜び、康光に報酬を送った。銭百貫文とも千貫文ともいうから、家康は義理の祖父に金で売られてしまったわけである。




後年戸田氏は徳川の傘下になり、江戸期には松本のほか、大垣など数家の大名家を出したが、
「なぜ戸田を優遇するのか」
と憤る徳川家臣も多かったらしい。
特に大久保彦左衛門などはその著者『三河物語』の中で大いに罵倒している。
しかしこのことは、むしろ家康の寛大さを褒めるべきであろう。




ともあれ、どうも松本城主にはいわくつきの家が多い。




松本城は5層6階の天守閣。「現存十ニ天守」の中では唯一の平城で、石垣の勾配もかなりゆるい。
「そびえ立つ」という印象の城ではない。




しかし、脚が痛い。




階段の上り下りはやはり苦しい。
三人とも這うようにして階段を上った。
いやホント平城で助かった。これが山城だったら…。




松本城を出たあと、痛い脚を引きずりながら松本市内を散策した。



蔵のある中町通り。
ここは土蔵作りの商家が残っている。
江戸時代、主に酒造業や呉服などの問屋が集まったところであるが、江戸末期から明治にかけて何度か大火に見舞われ、火災から街を守る為、商人たちの知恵で土蔵(なまこ壁)が造られた。
現在は家具、陶器、ガラスなどの民芸・工芸品、それに骨董品の店が多く集まっている。



中町から女鳥羽川の橋を隔てたナワテ(縄手)通り。
ここは露店が多い。カエルの町だそうで、カエルの玩具が売られていた。
昭和の匂い漂う古い映画館があり、その近くのこれもレトロな喫茶店に入った。2階から上はホテルになっていた。
副長が気に入って、
「映画観て、ここに泊まって、山行こうかな…」
などと言っていた。
(副長はのち、単独行にてこれを達成している)



駅前に戻り「居酒屋しんざん」という店で夕食兼打ち上げ。
地元の馬刺しを食べた。




うまい。




ふと塩の道の馬頭観音が脳裏によぎった。
馬さんありがとう。
なんだか、馬に始まって馬に終わった旅であった。



帰りは再び京王バスに乗り、信濃を去った。


雨飾山・完)




↓小笠原章二郎氏。
晩年の1970年代まで活躍。昨日亡くなった市川崑監督『ビルマの竪琴』(1956年、安井昌二版)にも出演している。