南アルプス天然少年団

南アルプス天然少年団

通りすがりの傍観者の足跡。

雨飾山・第三日糸魚川編

第三日(1999.10.21)

朝まで熟睡した。
団長も筆者もである。
ところが、副長のみが一人眠そうな顔をしている。
一番早く寝たのに…?と不審に思っていると、
「夜中に目が覚めて、朝まで眠れなかった…」らしい。


雨は止んでいた。
しかし、脚が痛くて階段の上り下りはやはり苦しい。
内風呂に入り、朝食を食べた。むろん、たらふくである。




バス停までは歩いて2時間かかるというので、山荘にあった衛星電話というやつでタクシーを呼び、山荘を出る。
三人とも足取りは重い。ちっとも前に進まぬ…。
30分ほど林道を下ると梶山ゲートというのがあり、一般車輌はここまで来れる。ちょうどタクシーが来てUターンしていた。
糸魚川駅へ向かう。




このあたりは広い範囲でいえば、根知という地域になる。
山荘にあった地図には「村上義清終焉の地」とあったので、
村上義清はこんなところで死んだのか)
と少々驚いた。


村上義清とは戦国期の信濃(長野県)の大名で、川中島の合戦の発端を作った人物として知られている。
武田信玄は京への道、即ち中山道を確保する為信濃を欲したが、信濃には村上義清がいた。信玄の若い頃はまだまだ義清の方が格上で、信玄は何度か痛い目に遭わされ、苦労してようやく義清を破り、これを追って信濃を手中にした。
追われた義清は越後へ逃れ、上杉謙信に旧領回復の助けを請うた。


このことが謙信という、義侠心に篤く、芸術家が芸術を愛するが如くに戦を愛する男をして、信玄に戦いを挑ませることとなった。
信玄はいわば、謙信に戦さの相手として見込まれてしまったわけである。
(謙信は小田原北条氏に関東を追われた上杉憲政に、上杉姓と関東管領職を譲られ、関東制圧に意欲をもっていたので元来信濃に対する領土欲は薄かった)


義清の願いは結局叶わず、晩年は根知城主として生涯を終えたのだが、信玄は謙信との戦いで散々苦労し、その後半生を費やしてしまった。
後年、信玄はようやく駿河を得、東海道沿いに進出したことで謙信と和睦し、彼から見れば小僧にしか見えない織田信長徳川家康と覇権を争おうとしたが、その時すでに信玄の寿命は尽きようとしていた。


武田信玄村上義清を追ったことによって信濃を得たが、それによって天下を逃した、という言い方も出来るのである。




糸魚川には「フォッサマグナ糸魚川」と書かれた横断幕が掲げられていた。
我々は駅前の『喫茶あかね』という店に入り、モーニングセットをたのんだ。
朝飯食ってまだ足りないのか、と言われそうだが、いや腹減るのですよ、山は。


糸魚川はヒスイ(翡翠)の街でもある。
駅前の観光物産センターではヒスイの歴史の解説があり、ヒスイで出来たアクセサリーを多数売っていた。
日本国内ではヒスイはこの地域でしか採れず、それが為に青森・三内丸山遺跡からヒスイが出土した時に大騒ぎになった。
縄文期の三内丸山で稲作が行われていた形跡があったことで、「縄文期は狩猟、弥生期は稲作」といったそれまでの常識が覆っただけでなく、三内丸山と糸魚川で一種の流通経路があったことがわかったのである。


かくして歴史の教科書は書き換えられた。


(まもなく完結)